「人間愛」と「絆」で繋げたバトンタッチ
映画「風が通り抜ける道」制作が始まった時から、完成までの「奇跡の2年間」
初めまして、映画「風が通り抜ける道」監督をさせて頂いております、田中壱征です。
2020年10月のことになります。
前作品「ぬくもりの内側」が完成し、自分に少しご褒美をと思い、自分の誕生日を沖縄県で過ごしたいと思い、沖縄県本島へ向かいました。
サンミュージックの山内さん、「ぬくもりの内側」プロデューサーの関西さんが、わざわざ大阪から沖縄県本島に来て下さり、沖縄県在住ダンス界大御所のじゅんや先生を紹介して頂きました。
沖縄県で、二回も、お誕生日のお祝いをして頂いたんです。
実は、沖縄県と私の歴史は、まだそんなに深い方ではございません。が、しかし、
2013年に、沖縄県を、映画のメイン舞台地にしたいと思い、沖縄県に通いに通いました。
沖縄のことを、学ぶ最初の頃でした。
学べば学ぶほど、
「沖縄県の土に眠っているご先祖様」と、「現代を生きる沖縄県の方々の想い」が交差して行きました。
当時、自分の力不足と環境組織の弱さで、結果、資金も集まらず、沖縄での本撮影を断念せざるを得ない状況となり、自分の中の沖縄県に一つ、けじめをつけておりました。
元々、前作品「ぬくもりの内側」は、沖縄県を舞台にして書いた脚本ですので、沖縄県の方言が入ったままのところも、実は存在しています。
映画「ぬくもりの内側」撮影で、少しでも、沖縄県で本撮影したい!!という思いが叶い、那覇市、読谷村、嘉手納町、本部町で、本撮影が出来ました。
作品は完成したものの沖縄県のシーンは、ごくわずかの編集となってしまいました。
話は戻し、2020年の誕生日の際に、
「沖縄県をメイン舞台にした長編映画をいつか撮りたいなー」と、ボソッと呟きました。
そしたら、皆さんが、
「是非、沖縄県で撮ってみたらいいよー」と。
酔った勢いもあって、
「決まった!!」みたいな・・・一番危険なパターンですよね。
東京に戻ってから、すぐ、じゅんや先生からご連絡を頂き、
「いつから撮りますか?」と。
・・・・私は、
言ったことをちゃんと覚えている人間です・・・
「長編映画でないかもしれませんが、予算がかからない範囲で、仲間内で撮影しちゃいましょうか!!!」と私は答えました。
じゅんや先生から、
「いつですか?」と、。
・・・・「年末クリスマスから、撮ります!!」・・・私は言ってしまったんです!!
じゅんや先生たちから、即、
「応援します!!!」と言葉を頂きました。
もう、やるっきゃないでしょう!!
その時、サンミュージックの岡副社長も、
「力を貸すから、頑張れ!!」と。
なんとか、1ヶ月半で、キャストと少しの資金を用意することが出来て、2020年12月24日から、クランクインが出来たんです。
その最初の時から、当映画に参加していた俳優は、
泉さん(上原役)、桃原さん(健太役)、天願さん(おばあ役)、安里さん(美智子役)。
うるま市、沖縄市、北谷町、本部町の皆さんにもお力添えを頂きながら、二週間撮り続けました。
サンミュージックから、
所属のアーティスト平川美香さん(うるま市出身)楽曲「想いうた〜風にのせて〜」を頂き、
2021年1月下旬東京に戻った後、ダイジェスト10分版を作ってみたんです。
ダイジェスト版が完成した後、サンミュージック本社に行き、すぐに、岡副社長と平川美香さんに見せました。
そしたら、平川美香さんが、ぽろぽろ号泣しているではありませんか!!!
彼女の感動で、私までもらい泣きをしてしまいました。
平川さんは、沖縄から上京して、初の映画主題歌で、さぞかし、嬉しかったんでしょう。
私は、自分の目の前で、あんなに涙を流されたのは、初めてだったかもしれません。
その時に思ったんです!!!
「この作品をもっと大きくしたい!!」
「脚本もさらにバージョンアップして、前作品にも勝るようなものを創りたい!!」
「沖縄県の方々からちゃんと認めて頂ける作品にしたい!!」と。
そしたら、岡副社長と平川美香さんが、「にやっ」と。
そこから、本当の「風が通り抜ける道」製作がスタートしたように思います。
1ヶ月に2回、沖縄に通い、沖縄県の方々ととにかく、話し、触れあい、沖縄県をさらに学んで行きました。
「脚本プロット構成」が完成し、同じタイミングでキャスティングも本格的に始動!!
山田邦子さんとは、偶然FMラジオでお会いし、すぐに、「芸能事務所社長役をお願いします!!」と。
邦子さんから、即答で、「OK!!」。
今までの映画製作人生で、邦子さんとの波長が、とにかくナンバー1でした!!
即座の意気投合ぶりだったように思います。宿曜では、邦子さんと同じ星らしいです。
邦子さんには、感謝感謝です!!
同じ時期に、平川美香さんと、私のメソッド演技生徒(昔)の具志堅貴大2人から、比嘉梨乃さんへ、この映画の話が行きました。
ちょうどその時、
比嘉梨乃さんが沖縄から東京に戻る便に乗る前(那覇空港出発ロビー)だったらしく、
新企画書と新プロットを読んでから、飛行機の中で、ずっと号泣だったようです。
そのあと、所属事務所の植野社長と比嘉梨乃さんと新宿で会うことになります。
すると、植野社長とは、3年前から、メールでやり取りをしていた方だったんです。
とてもびっくりの縁でした。
ケニー大倉と大倉弘也とは、最初会った時から、「3兄弟」のような気がして、
そこから、3兄弟LINEがあるくらい、親みが深いんです。
前作品では、お父様(ジョニー大倉さん)の楽曲が挿入歌に入っております。
大林素子さんは、切っても切れない長ーい縁ですし、
映画「風道」のキャスティングは、様々な軌跡が重なり、2ヶ月間で、今のラインナップ勢が揃ったように思います。
東京と沖縄県(今の沖縄制作委員会)とは、離れている時でも、ほぼ毎日、連絡を取り合い、自分が今どこにいるのか、わからなくなっていましたね。
2021年4月の時です。
沖縄うるま市のいつも仲間と一緒にいるHOMEで、いつもように、「かめかめ(食べろ食べろ)」攻撃で、美味しいお酒も飲みながら・・・
その夜に、沖縄県の皆さんが言ってくれたんです!!
「監督、ご両親もいないわけだし、居場所自体が実際ないんだから、こっちに住めばいいよー」と。
自分は一瞬、止まりました。
皆の前で、涙を見せるわけには行かず、すぐトイレに行き、トイレの中で、涙を堪えました!!!
酔っ払ったふりをしながら、席に戻り、「いつか、住めたらいいですね!!」と、返事をしました。
そしたら、皆さんが、笑顔で、温かく微笑んでくれました。
この4月の夜のことは、一生忘れられないと思います。
感動とともに、東京に戻り、GWは、脚本最終稿の書き上げるために、銀座のホテルに、こもりました!!
銀座から遠い沖縄を思いながら・・
GW後に、やっと、脚本最終稿を書きあげることが出来ました。
「沖縄県」を知り、「沖縄県」を学んだ自分だから書けた最終稿・・・ではなくて、
沖縄県の方々からの愛情を感じて、東京にいても、沖縄県の皆さんの愛情が溢れんばかりに押し寄せ、感極まり、書くことが出来た最終稿だと思います。
GW過ぎに、最終稿を持って、真っ先に、沖縄へ飛びました。
うるま市のよんなーハウスで、沖縄県の仲間たちに、初めて見せる最終稿。
ドキドキで、手に汗が引かない状態。
庭に出て、ガジュマルの木に一方的に話をしていました。苦笑
「頼むよ、ガジュマル君!!!」
・・・・・すると、よんなーハウスから・・・
ティッシュと鼻水の音が、最後まで、ずっと響いてました。
「本当に、良かった!!」・・・ガジュマル君に言いました。
脚本を読み終わった頃合いに、皆さんの元に行きました。
すると、
皆さんから、「沖縄をここまで愛してくれてありがとうね!!」と涙目で言って頂いたんです。
「こちらこそ、私をここまでしてくれて、有難うございます!! 皆と出会っていなかったら、書けなかった脚本です!!」と。
そこから、脚本の沖縄方言添削の日々が続き、完全最終稿が製本されました。
2ヶ月の準備を経て、
7月から沖縄県本島正式クランクイン!!
波の上神社で、「無事に撮影が出来ますように!!」皆でご祈祷もさせて頂きました。
撮影では、那覇市、うるま市、宜野湾市、沖縄市、北谷町、恩納村、本部町、浦添市、読谷村、名護市、北中城村と1ヶ月弱、周りに回ったと思います。
1ヶ月の走行距離が4000キロ。
ナビなしで、どこでもいけるんじゃないかと・・。
移動するごとに、うやはーふーじ (沖縄県ご先祖様)が温かく見守ってくれているような感じがして、本当に守られていたんだなと思いました。
本当にびっくりすることも起きました!!
本島本撮影の1ヶ月弱、ずっと晴天で、一滴も雨が降らなかったんです。
しかも、コロナ禍で、観光客はいない美しい沖縄県本島が撮れて・・・
地元の方々も、皆して驚かれていました。
うやはーふーじさまに、「有り難う御座います!!」と言い、本島での本撮影が終わりました。
そこで、またまたびっくりなことが・・。
東京に帰る日の朝、
台風がやって来て、めちゃくちゃ豪雨ではありませんか・・・
スタッフとカメラマンさんは午前の便で、なんとか東京へ。
私と助監督の飛行機は欠航になり、読谷で延泊になりました。
遅いゆっくりな台風で、4日間、雨が止みません。
本当に遅い台風なんです。
これには、笑いました。
「もう少しゆっくりしなさい」と言われてる気がして、
5年ぶりに、1日の半分を寝ました。
読谷村のMAXスーパーで買い出しをしたり、ゲームセンター行ったり、FMに出演してみたり、この4日間は、沖縄県からの休憩のプレゼントそのものでした。
無事に7月末、東京に戻れたんですが、、、、
実は8月は、ほとんど休むことになってしまったんです。
コロナデルタ陽性になってしまい、二週間の外出禁止と後遺症で、完全に死んでおりました。
皆に言うか、言わないか・・・・
が、しかし、そばにいる皆さん、勘が鋭い!!
完全に、皆さん、知っていました!!!笑
具志堅用高さん・大林素子さんの高円寺本撮影も1ヶ月延期の許諾もらい、
9月半ばから、本撮影がまたスタートしました。
10月からは、福岡、佐賀、熊本で本撮影。
では、沖縄県制作スタッフの高山くんも音声の児玉さんも、
わざわざ九州本撮影まで来てくれました。
撮影と重なった小生の誕生日。
皆さんがお祝いをしてくれて、感謝しきれませんでしたね。
九州ロケは、とにかく強行そのもの。
九州(福岡、北九州、博多、佐賀、柳川、熊本、上天草)のご協力者の魂の熱さで、なんとか乗り切ることが出来たんだと思います!!
九州ラストのロケ地である上天草では、
三浦浩一さんも、出演者さんも、スタッフも、ご協力者の方々も、皆で感極まってしまって・・やばかったです。
三浦浩一さんのインタビューを見てくれたら、涙の雰囲気がわかると思います!!
皆が何故か泣いてしまったんですよね・・・
「沖縄メインの映画だけど、この、九州からも愛のリレーをじゃんじゃん発信して行くけん!!」って、
一緒に頑張って頂いた福岡、北九州、博多、佐賀、柳川、熊本、上天草の協力プロデューサーさんの一人一人の顔は、仏様に見えました。
心より、感謝しかありません。
次に、静岡県浜松での本撮影がスタートしました。
「沖縄→九州。次は、浜松の番!! この浜松から愛を発信して行くよ!!」と、浜松のプロデューサーたちも、一所懸命に頑張ってくれました。
エキストラさんをはじめ、全出演者は150名を超えました。山田邦子さんの弟さんまで駆けつけてくれました。
当映画で、一番大きい撮影現場でした。
主演の比嘉梨乃さんも、自前の歌唱力を発揮するときがやっと訪れました。
比嘉梨乃さんは、一所懸命に個人で練習を積んでこられ、主演として、本当に頑張ってくれたと思います。
「私は努力しかないんです!!」比嘉梨乃さんが言う真の言葉が、皆で支えて行こうと、改めて思った瞬間でした。
150人が一つになった現場は、それはもう、最高でした!!
渡辺梓さんのインタビューを見て頂けたら、分かるかと思います。
次に、東京の本撮影がスタートしました。
長時間に及んだ東京での撮影の数々。
東京だからって、中だるみをするわけには行きません!!
山田邦子さんが、とにかく、プロ中のプロの魂を出し切ってくれていたんだなと、つくづく思いました。
ベテラン女優の未來貴子さんも、気合いだらけで、近寄れなかったです・・・m(_ _)m
そんな時でも、沖縄県の仲間たちはずっとこちらを心配してくれていたんですよね・・
「無事に東京撮影が終わったんだね!! 引き続きの道のりも、沖縄から応援してます!!」と。
そんな時、改めて思うんです。
この映画は、「沖縄県の映画」なんだなって・・・
この10月で、比嘉梨乃さん・山田邦子さん・ケニーさん・三浦浩一さんは、撮影アップとなります。
さらに、本撮影は続いて行きます。
11月から、大阪、岐阜、名古屋の撮影がスタートしました。
自分も慣れしたしんだ街なので、安心しかなかったです。
この大阪、岐阜、名古屋は、
泉さん(上原役)ひとり出演のロードムービーなので、演出しながら、カメラも自分が担当。
初心に戻ったと言うか・・・なんと言うか・・・
泉さんとは、タイバンコクで出会った古い仲間(元タイ在住組)です。
泉さんとは、なんでも言い合える仲なので、この場でも言ってしまいますが・・・
大阪区役所の方から、急に私に電話が入るんです。
「泉さんが路上で倒れているので、確保しました。すぐに、迎えに来てください」と。
驚いて迎えに言ったら、泉さんは、酔い潰れてて、呂律も回らず、
「俺は人生ダメダメな役なんだから!!」と。。。。
「役作りの前に、酒に溺れるな!!」と怒りながらも、介護している自分が本当におかしかったですね。
そんな事態から、大阪本撮影が続いて行きます!!
「イッセイさんにカメラ撮られた方が、1カメだし、緊張しない!いつもは3カメだから、緊張するんだよ」と、米原に向かう新快速電車の中で、呟く泉さん。
私はとっさに返します「常時、3カメにしてしまうぞ!!」と、、、こんな問答だらけの珍道中撮影の連続でした。
最後、名古屋城での撮影の時は、泉さんから解放される幸せでいっぱいだったと思います。笑
同じ年の九紫火星・・おかしな縁(絆)なんです。
そして、
12月は、沖縄本島の追加撮影と宮古島の本撮影。
同窓会のように、うるま市で会う沖縄県の仲間たち。
本当に、ほっとするんですよね・・・。
そんな日も束の間。
那覇から宮古島へ飛びました。
ドローン技師によって最高な絵がたくさん撮れて行きます!!
毎日、午前中は、宮古そばを食べて、撮影がスタートすると言う体が小麦粉だらけの日々でした。
くせになってしまうんです、あの味が・・・!!
大神島にも行くことが出来て、ここで、また奇跡が起きるのです。
この奇跡は、このHPでは、言うのをやめておきます。
さすが、天下の「大神島」でした。
12月半ばから、1月末は、本撮影はお休みでしたが、
私は、東北と北海道に、3回、通い、撮影準備に入ります。
参議院の石井浩郎先生、男鹿市長の菅原広二さんには大変お世話になりました。
この東北・北海道は、「最後の地方撮影」ということもあり、自分自身、更に気合いが入ります!!
そこで、気づきがあるんです。
秋田のなまはげと、沖縄のシーサーは、「魂が似ている」ということを。
これは、映画本編を見てくだされば、一目瞭然だと思います。
雪景色だけの東北・北海道で、沖縄県とは別世界の本撮影が、2月からスタートしました。
東北・北海道の魂と情感を、プロ根性で、伝えきる塩谷瞬さん(瞬役)
雪まみれの中、凍傷寸前まで頑張り切った泉さんの二人の演技は見事でした!!!
10人の撮影クルーたちも、必死に雪と戦いました。
実は、小生の中で、ずっとこの15年間、東北に恩返しがしたかった気持ちがありまして、
その思いを、皆で、果たすことが出来たように思います!!
沖縄の映画なのに、何故に、東北と北海道で、雪景色?
この東北と北海道があるから、日本列島全域に愛の風が吹くんです!!!
2月下旬。
私は、急性気管支炎となり、二週間、倒れることになります。
でも、倒れてばかりでは、いられません!!
沖縄離島(石垣島、小浜島、竹富島)での、沖縄ラスト撮影が待っています。
4ヶ月ぶりの沖縄・・・うやはーふーじさまに伝えます。
「脚本最終稿を書き上げた日から、1年後の今、まさか、小浜島を訪れるだなんて、夢にも思いませんでした!!
ここまで、長かったです!!・・・・あと、もう少し、頑張ります!!!」と。
疲れていた自分を癒してくれたのは、そう、出演者の宮良忍さん(仁役)でした。
久々の再会と追加撮影!!!
「監督、やっと、演技に本調子が出て来たよ!!!楽しいねー」と笑っている忍さんと、お疲れ様の乾杯を交わします。笑
沖縄県の映画だけに、
沖縄県全土を本撮影をすることが出来た喜び、何者にも変え難い幸せを味わうことが出来たように思います。
東京に戻ってからは、渋谷の編集スタジオにて、本編集の日々が半年間、続きました。
当映画のシーン数は、「250」もあるんです。
撮影地の数も、日本全国42カ所。
7名の編集スタッフへ、1コマ1コマ的確な指示を出して行きながらも、
毎日が試行錯誤の連続で、気が遠くなる地道な作業の繰り返しでした。
そして、防衛省幕僚本部から「自衛隊の本撮影許可」を待つ日々の連続でもありました。
7ヶ月かけて、防衛省と約50回は、メール連絡をし合ったと思います。
ロシアウクライナ戦争、コロナ感染、尖閣諸島厳格体制、元安倍首相死去、、、様々なことが重なり、
防衛省幕僚本部も、なかなか、本撮影にGOを出してくれません。
自衛隊役の俳優20人は、不安になるばかり。
俳優さん・事務所様たちには、
「幕僚長からの連絡を待っていて下さい」と言及の繰り返しでした。
7月末のことです!!
防衛省幕僚本部から、遂に、「本撮影日選定通知」が届いたんです!!
そして、9月の自衛隊基地での撮影が出来るようになったんです。
しかも、日本の陸上自衛隊の中でも、エリート中のエリート集団・・・第一空挺団での本撮影。
第一空挺団での本撮影が、当映画「風道」のクランクアップとなりました。
自衛隊チームと、一緒に、当映画の最終の美を飾れたこと、
そして、熱い人間の空気間から生まれた絆感が・・・・皆感動で、目頭が熱くなって行きます。
自衛隊役の皆様、2020年7月(沖縄クランクイン)から2021年9月(第一空挺団本撮影)まで、1年と3ヶ月と長い困難を一緒に乗り越えて頂き、本当に有難う御座いました。
陸佐2等を演じられる俳優 丈さんに、最後、言われました。
映画「ぬくもりの内側」も、映画「風が通り抜ける道」も、いつもいつも長い撮影で、
監督の長ーいスタイルにはもう慣れました。
次回作は、海外が舞台地になる大作が既に決定しているようですし、
これからも、どんどん長ーい作品、付き合って行きますよ!!と。笑
付き合いの長い丈さんだから言える言葉ですよね。
丈さん、いつも、有難う御座います!!
最初の本撮影2020年12月から、2022年9月。1年10ヶ月に及ぶ本撮影が終了しました・・。
全出演者さん、所属事務所さん、日本各地のプロデューサー・協力者さん達も、胸を撫でおろしてくれたと思います。
私は、
沖縄県の後援が入っているこの映画に、恥じぬよう、1にも2にも、製作時間を大切にしてここまで来ました!!
風道クランクアップの日は、一言では言い表すことが出来ません。
北は北海道から、南は沖縄県まで、
これまで、一緒に頑張って来てくれた1200人の関係者。
1にも、2にも、3にも、すべて感謝しかないです!!
一人でも欠けていたら、ここまでは辿り着けなかったと思います。
皆さんがいてくださったことに、本当に感謝しかないです!!
最後まで、一緒に寝ないで頑張ってくれたVOPの野田さん、助監督大原君・好野さん・村上君。
東京制作実行委員会本部の熊井君、順子さん。
最後まで、完成をずっと信じてくれていた沖縄県の仲間達。じゅんや先生、上西さん、安里さん、制作の高山さん。
そして、比嘉梨乃さん、山田邦子さん、藤木勇人さん、具志堅用高さん、三浦浩一さん、丈さん、椎名まこさん、ケニーさんをはじめ、出演者の皆様すべての方々。
愛のバトンリレーをちゃんと繋いで頂いた福岡、佐賀、熊本、大阪、岐阜、愛知、静岡、東京、千葉、秋田、青森、北海道のプロデューサーと関係者皆さま。
ずっと連絡を取り合って下さったサンミュージック副社長の岡さん、太田プロ統括マネージャーの中村さんをはじめ、事務所の皆様。
本当に本当に有難う御座いました!!
・比嘉梨乃さん&藤木勇人さん&SHINOBUさん(親子愛force)
・山田邦子さん&ケニーさん&未來貴子さん&大倉弘也&椎名まこさん(東京事務所force)
・天願綾子さん&桃原克博さん(支え合いの絆force)
・泉裕さん&塩谷瞬さん(雪国の豪腕force)
・渡辺梓さん・小俣里奈さん(必死の乗り越えforce)
・具志堅用高さん&大林素子さん(高円寺のご夫婦愛force)
・三浦浩一さん&丈さん&Bro.KORNさん(最強のゲストforce)
当映画の主軸7は、こちらの7forceになります。
この欠かせない7つのforceが織りなす「愛すべて」が
映画本編に入ってこそ、
映画「風が通り抜ける道」完結となります。
皆で作った愛の結晶、それが、映画「風が通り抜ける道」です。
北海道から沖縄まで、「日本列島」に、愛の風が吹く作品です。
映画「風が通り抜ける道」・・・・これからも、愛の風は永遠に吹き続けます!!!
「風が通り抜ける道」を見て下さる一人一人の方々が、
「愛」と「可能性」を、いっぱい感じて頂けたら、幸いに思います。
明日という道を選んでいく「糧」に少しでもなれたら、より幸せに思います。
そして、
この地球上で、今、同じタイミングで、一緒に生きているご縁に、深く深く感謝致します。
小生も若輩者なので、まだまだ頑張って行きゃなきゃです!!!!
日々日々、関わって頂く方々への「感謝」を一番に、
より精進して行く所存です!!
今後も、何卒宜しくお願い致します。
この度は、
脚本家として、監督として、製作総指揮として、
当映画をZEROから創らさせて頂き、
誠に有り難うございました。
人生としても、
本当に貴重なる経験をさせて頂きました。
重ね重ね、誠に有難う御座いました。
「感謝の気持ちを込めて」
監督 田中壱征